村松海岸砂防林の歴史
村松晴嵐の碑と八間道路
村松晴嵐の碑が建碑された地は,大神宮や村松山虚空蔵堂の裏手から,広々とした松林越しに太平洋を望む景勝地です。水戸藩第九代藩主 徳川斉昭公によって水戸八景のひとつに選ばれ,自然石に書かれた「村松晴嵐」の文字は徳川斉昭の筆によるものとされています。当地には古くから様々な文人が訪れ,白砂青松の景観について書き残しています。古い記録では室町時代(1468年),連歌師宗祇という人物が村松の美しさを歌に詠んでいます。
また,村松海岸から約1キロメートルに渡って続く白砂の八間道路は,大神宮や村松山虚空蔵堂から海まで続く道として親しまれてきました。特に,江戸時代の天保年間に始まり現代に続く十三参りの時期の賑わいには格別なものがありました。
昭和30年頃の八間道路の様子。多くの参詣客で賑わっている。
平成25年の村松晴嵐の碑の様子。青々としたマツの生い茂る景勝地であった。
千々乱風伝説と砂防林の造成
景勝地として知られている現在の東海村の海岸一帯ですが,その一方で,集落が一夜にして砂に埋まったという千々乱風伝説が残っている場所でもあります。この伝説の集落は,平成15年(2003年)J-PARC建設の際に砂の中から発見されています。また,元和9年(1623年),当時の村松浜で製塩を営んでいた百姓17名が,強風と飛砂に悩まされ,村松山虚空蔵堂領内への移住を願い出た嘆願書が残されています。
強風と飛砂の害はその後も続き,大正時代になると,一帯には幅400~600メートルの広大な砂丘地帯が形成されていました。このままでは集落が砂に埋もれてしまうと危機感を覚えた村松村長は県知事に砂防工事の嘆願書を提出し,これによって,大正7年,村松海岸が国の「海岸砂防林造成に関する試験地」に選定されます。
その後,担当者に選任された河田杰農学博士の指導の下,大正時代終わりから3回に分けて植樹が行われ,のべ35年間,約2万3千人の村民の力により約184haの砂防林が完成しました。また,ここで確立された造林法は茨城式と呼ばれ,国内の他の地域の砂防林造成の規範となりました。
河田博士の謝恩会の様子。前列中央が河田博士。
完成した砂防林。
松くい虫被害
平成31年の村松晴嵐の碑の様子。平成25年の写真と比べてみると,クロマツ林が松くい虫被害を受け枯れてしまっていることが分かる。
松くい虫被害とは,マツノザイセンチュウとマツノマダラカミキリという2種類の虫が引き起こす伝染病です。マツノザイセンチュウがマツの樹の中に侵入・増殖することによって発症し,発症したマツは急激に衰弱・枯死してしまいます。そして,枯死したマツで発生・羽化したマツノマダラカミキリが健全なマツを食害することで感染が拡大します。日本には明治38年(1905年)頃に侵入し,昭和57年(1982年)までに全国に広がりました。
村松晴嵐の碑周辺の砂防林も近年になって松くい虫被害を受け,かつて白砂青松の地と呼ばれた豊かな景観は大きく損なわれてしまいました。
村松晴嵐「クロマツ林」リジェネプロジェクト
こうした現状から脱却するため,令和元年度より発足したのが村松晴嵐「クロマツ林」リジェネプロジェクトです。このプロジェクトにはふたつの柱があります。ひとつは,森林整備です。村松晴嵐の碑周辺から八間道路にかけて,除草・整地・クロマツの植樹・植樹した幼木への保護ネットの設置等を行い,先人たちが作り上げてきた豊かな景観と砂防林の機能回復を目指しています。
もうひとつの柱は,砂防林についての学習や植樹体験による普及啓発活動です。地元の照沼小学校では授業の一環として,また地域住民の方々からも参加者を募り,砂防林の歴史やその大切さについての学習と植樹体験を行ってきました。
令和5年度でひとつの節目を迎えた本プロジェクトの沿革については,以下のHPをご覧ください。
令和元年度に植樹した村松晴嵐の碑周辺の様子。令和6年度撮影。植樹したクロマツは大人の背丈よりも大きく育っている。
令和6年度の植樹体験の様子。5年間で参加してくださった方は300人以上,植えたマツは2000本を超えた。
参考文献
東海村史編さん委員会 (1992年) 「村の歴史と群像」
東海村教育委員会 (1992年) 「東海村史(通史編)」
東海村教育委員会 (2009年) 「ふるさと歴訪」
東海村教育委員会 (2019年) 「ふるさと歴訪 第二集」
財団法人茨城県教育財団(2005年)「村松白根遺跡1」茨城県教育財団文化財調査報告 第250集
関連リンク
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更新日:2024年05月22日