学芸員だより(第12号)発見された巨大な堀の正体は…

更新日:2025年12月11日

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発見された巨大な堀の正体は…

2025年12月11日

城めぐりの様子

【写真1】城めぐりの様子(III郭北側の堀の中)

皆さんは、東海村の石神内宿地区に所在する「石神城跡」を訪れたことがありますでしょうか。

写真1は、12月6日に開催した『歩く博物館 城めぐり』の様子ですが、当日は学芸員と一緒に石神城跡のI~III郭(図1)を実際に歩きながら中世の城の特徴についてお話しました。I~III郭は石神城跡の中心部にある重要な曲輪で、廃城から400年経過した今も県内屈指の良好な保存状態を維持しており、現地では大迫力の堀や立派な土塁を見ることができます。これらの曲輪は、現在「石神城址公園」として整備され地域の憩いの場ともなっているため、ここが「お城」だと思っている方も多いのではないでしょうか。しかし、今から5年前、I~III郭(内郭)から南西へ約500m離れた石神コミュニティーセンター内でのマンホールトイレ設置工事中に突如、石神城の巨大な堀が地中から姿を現しました。実は、内郭の周囲には城下町や城主の菩提寺が建てられたIV・V郭(外郭)があり、城の範囲は思った以上に広かったのです(図1)。今回は古い測量図や写真をヒントに巨大堀の謎に迫りたいと思います。

 

令和2年9~10月に行った発掘調査の結果、石神コミュニティセンター(以下「石神コミセン」と略す)で発見された堀は、施設西側を走る村道と同じ方向にまっすぐ掘られていることが分かりました。注目すべきは幅約7.5m、深さ約2.6mを測る巨大な堀ということです(写真2・3)。規模や形から察するに、これが防御の役割を果たした堀であることは間違いありません。部分的な発掘調査であったため堀の全体像は不明でしたが、その謎に迫る手掛かりが古い測量図や写真に残されていました。

写真2堀発掘のようす東から

【写真2】堀発掘の様子(東から)※赤矢印:堀

写真3堀発掘のようす西から

【写真3】堀発掘の様子(西から)

1956年測量整合図

【図1】1956年測量整合図(有限会社三井考測作成)※赤字・枠など:筆者加筆

 

図1は有限会社三井考測作成の「1956年測量整合図」です。赤枠部分に注目すると、青線で示した昭和31年(1956)作図の測量図には、現在の原電通りの石神コミセン入口付近から北西にまっすぐのびる堀と土塁が記されていました。堀発見地(★地点)はこの範囲に重なるため、問題の堀が測量図に描かれた堀の一部であることが分かりました。また、土塁は堀の東側に造られていることから、これらは西側からの侵入を防ぐことを意識しています。では、堀の東側には守るべき大切な何かがあったのでしょうか。

図1に記された字名を見ると、堀と土塁の東側は「堀ノ内」と呼ばれています。字名は、その土地の歴史を知る上で重要な手掛かりとなり、「堀ノ内」という名称は付近に城や館があったことに由来する可能性があります。実際に堀発見地の付近は、石神城跡の中心部(I~III郭)の南西にあり、城下町があったとされる外郭(V郭)の範囲に位置しています。つまり、「堀ノ内」を含む堀の東側が石神城の内側(曲輪内)だとすると、問題の堀と土塁は敵の侵攻から曲輪を守るためのものと捉えることができます。ちなみに、石神城跡の中心部(I~III郭)を見ると、II郭(御城)が「本城」、III郭が「城ノ内」と呼ばれており、ここにも「堀ノ内」同様に字名と城との関わりを見ることができます。

さて、古い測量図や地名をヒントに堀の正体に迫りましたが、実は最近、石神コミセン建設前に撮影された堀発見地の写真を発見しました。昭和58年(1983)3月撮影の写真4には、村道に沿って堀と土塁が存在した様子が記録されています。現在はここに石神コミセンが建っています(写真5)。堀は後世の土砂の流入などにより埋没し、造られた頃よりも浅くなっていますが、写真6に写る赤白ポールから推測すると、撮影時の堀底は村道の高さから2mほど深いことが分かります。また、土塁の天端は堀底から推定4mほど高い位置にあるため、石神城の時代には相当に深い堀と土塁であったと考えられます。

写真4 1983年の堀土塁のようす北から

【写真4】1983年の堀・土塁の様子(北から)

写真5 2025年の写真4地点のようす北から

【写真5】2025年の写真4地点の様子(北から)

写真6 1983年の堀土塁のようす南から

【写真6】1983年の堀・土塁の様子(南から)

写真7 2025年の写真6地点のようす南から

【写真7】2025年の写真6地点の様子(南から)

写真8 1983年の堀土塁のようす西から

【写真8】1983年の堀・土塁の様子(西から)

写真9 2025年の写真8地点のようす西から

【写真9】2025年の写真8地点の様子(西から)

 

残念ながら現在の土塁は「タン小路」の宅地内に一部残るのみですが、令和2年の聞き取りでは30年以上前はこの宅地内の土塁や堀が石神コミセン付近まで続いていたとの証言を得ており、古い写真のような光景が人々の記憶に鮮明に残されていたことが伺えます。そして、私たちが何気なく通る道路の地下には、戦乱の世に石神城を幾度となく救ったであろう巨大堀が今も眠り続けているのです。

(中泉 雄太)

 

参考文献

  • 小川和博他(1992)『石神城跡―茨城県那珂郡東海村所在中世城跡の調査―』東海村遺跡調査会・東海村教育委員会

  • 中泉雄太・野田良直(2024)「第2節 石神城跡隣接地」『令和4年度東海村内遺跡発掘調査報告書』東海村教育委員会

  • 三井猛(2025)『令和6年度県指定史跡石神城跡3次元微地形測量業務委託 3次元微地形測量成果簿』東海村教育委員会・有限会社三井考測

  

 

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