県指定文化財「石神城跡」

更新日:2019年12月23日

畑や家々、木々などが見える石神城跡を上空から撮影した航空写真

石神城について知りたい!

石神城はどんなところに位置していたの?

石神城は、標高19メートル、比高15メートルの台地端部に立地しています。城の東側は、現在旧流路となっていますが、城の機能していた時代には久慈川が台地に向け大きく蛇行しており、要害の地形を一層強固なものにしていました。城の西側は広大な台地つづきとなっており、主たる防御施設も台地側を遮断することに向けられていました。

石神城にはどんな歴史があるの?

石神城は、中世のお城です。城が機能していた中世においては東に旧久慈川が流れ、南北を深い谷地に挟まれた要害の地に作られていました。作られた時期については諸説ありますが、永享4年(1432)足利持氏感状に「常州石上城合戦」とあるため、この時期には作られていたと思われます。
城主は佐竹氏家臣の石神小野崎氏です。天文15年(1546)頃、所領の境界をめぐってしばしば争いが起きていた額田小野崎氏との間で合戦になり、その結果石神小野崎氏は敗北し、城から退去しました。しかしその後、佐竹氏への戦功により領地の維持と帰城が認められます。慶長7年(1602)佐竹義宣の秋田移封に従ってこの地を去り、石神城は廃城になりました。

石神城はどんなお城なの?

保存状態が非常によく、深い堀や周りをめぐる土塁など、当時の城の様子がよく残っています。平成元~2年には発掘調査を行い、建物跡や井戸の跡などを確認しました。発掘調査の成果からは、石神城は築城当初は戦いの際に地域の人々と臨時的に避難する逃げ城でしたが、戦国時代の終わり頃には堀や土塁を改修し、軍事性を大幅に高めた領主の城へと性格が変わったことが指摘されています。中心の郭の外にも土塁の一部が残っているほか、城の西側には城下町としての景観が見られ、南側には城主の石神小野崎氏の菩提寺である長松院などが立地しています。このように、石神城の歴史を城跡だけではなく地域全体に広がって見ることができるところも石神城の大きな魅力の1つです。

石神城の構造・見どころは?

中心の構造は3つの曲輪からなっています。「遠見城とおみじょう」と呼ばれる1郭、「御城みじょう」と称される2郭、そして2郭のさらに西側に連なる3郭です。遠見城(1郭)は、御城に対してより優位な曲輪として機能しており、遠見城は城内第1位の曲輪でありました。御城(2郭)は、中心の曲輪群のなかでは最も大きな面積でした。3郭は、石神城の主要部のなかで最も西側に位置した曲輪で、御城についで大きな面積を占めました。主要部の遺構の保存状況は、茨城県内の中世城郭跡と比べても非常に良好なものといえます。深い堀やまわりをめぐる土塁など、当時の城の様子が分かる遺構がよく残っていますので、ぜひご覧ください。

V字型の大きな高低差の溝に行く手を阻むように不規則に木が植えられている写真

堀:敵の動きを阻むために作られた溝で、城の周りをめぐっています。7~8メートルもある高低差にびっくり!

敵の侵入を妨げるために土を持って固めた土塁、その上にはたくさんの木々が植わっている写真

土塁:土を盛って固めて敵の侵入や攻撃を防ぐ施設です。城内の様々な場所で見ることができます。

互い違いのの土塁の中を伸びる道、土塁にはたくさんの木々が植わっている写真

くい違い虎口:虎口とは、城の出入り口のことです。この場所の土塁を見ると、直線状ではなく、くい違っていることが分かります。これも防御の施設であり、敵に横から矢を射ることに使われたと考えられます。

石神城を見学したい!

見学ポイントなど、詳しい情報が載っているパンフレットがございますので、ぜひお持ちになって現地へ足を運んでみてください。
パンフレットは下記のファイルです。

アクセス案内

所在地茨城県那珂郡東海村石神内宿1399-3他
駐車台数 西側駐車場12台、北側駐車場28台

電車の場合

東海駅西口より徒歩約40分

車の場合

東海スマートインターチェンジより約10分、日立南太田インターチェンジり約10分

車でのお越しがオススメです。

地図

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教育委員会 生涯学習課 文化芸術・スポーツ推進担当

〒319-1112 茨城県那珂郡東海村村松768番地38(歴史と未来の交流館)
電話番号:029-287-0851
ファックス:029-287-7060

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